【ヒゲ先生のコラム】“憲法”の教育への影響②
“護憲(ごけん)”、という考え方がある。憲法を一字でも変えてしまったら戦争に突き進むから、憲法は変えない、という思想だ。立憲民主党、共産党、社民党などがそうだ。
一方、自民党は結党の目標がそもそも自主的な憲法を作ること、だという。マッカーサーの影響しない新しい憲法を作るべきだというのが基本的な考え方である。
と、学校教育ではここに大変難しい問題が生じる。現代政治が別々の考え方をもっている正反対だと、気をつけないとどちらかに偏った指導になりかねない。
だから、教室で戦後の歴史や政治史についてあつかうときには注意が必要になるのである。生徒たちは、昭和時代のはじめまではあんなに饒舌(じょうぜつ)だった先生が、戦後史の単元になると、口をつぐみ、おどおどし、あとは教科書を読んどけと放り出す。
偏ったらいけない。だから、政治や戦後史の指導は気をつけなければならないのだ。
中学校の先生がごまかしてうやむやにするものだから、日本全国の中学生たちは、圧倒的に戦後史に弱い。ポツダム宣言受諾あたりからもやもやとしている生徒たちが実に多い。政治にも弱い。
投票権を18歳に引き下げても、若い人たちの政治への無関心はそのまま。だから投票率は下がりっぱなしである。
政治の話でも戦後史の指導も、教室内でもっともっと活発にやればいいのである。
おとなのたしなみとして公平不偏は守らねばならないが、様々な考えがあることを社会の具体例として先生が率先してどんどん取り上げ議論する。議論にならなくても「考える」訓練を子供たちに提供すべきではないだろうか。
憲法を修正すべきかどうか、という問題ですら、である。
ちなみに、全国の中学校の先生方は、教員になるときに『憲法に基づいて指導します』と宣誓させられる。教育公務員だから当然である。だから、まちがっても、教室内で「戦争するのもいいかもよ」などと発言したら、クビになる。
私も、国語科の教員免許をとるために学生時代は『憲法』の単位をとった。それが、文部科学省の方針なのである。
戦争は、不幸である。一旦戦争が始まると、ウクライナにしろパレスチナにしろ、われわれ市民が多く殺される。本来は軍服を着た軍人同士が鉄砲で撃ち合うべきものであるが、今は、大型ミサイルが街と市民を殺傷する。
だから、戦争はなんとしても避けたい。
でも、重要なのは『憲法』を変えさえしなければ本当に戦争は起きないのだろうか。もっと具体的に平和を維持する方法を考えねばならない。みんなが考えて広く柔軟に議論して、である。
石破さんはやっと総裁になれたのに、くだらない裏金問題の処理に追われ、なかなか憲法改正までは遠い道のりのようだ。憲法にせめて自衛隊は明記したいと言っていたのに……。
自衛隊員は機関銃を所持できる。警察官は腰にピストルを携帯できる。警察官は社会の悪い奴を取り締まるために、そして自衛官は外国の侵略を防ぐためにだ。
人殺しの道具をもっているからといって危険なのでは無い。それを法で秩序づけることが必要なのである。国家というものは、どうやら、そういうものらしい。
ちなみに、ここで笑い話をひとつ。ある中学生の解答に、「天皇は日本国のシュウチョウである」というのがあった。酋長はインディアンの親玉のことだろ、と笑いながら答える先生。
そう、『日本国憲法』の中で天皇を日本国の象徴としたのは秀逸である。でも、象徴って何だ? 説明できる先生はあまり多くない。
深谷仁一
日本脚本家連盟員
日本放送作家組合員